えんだより2013年11月分

「『平和があるように』と挨拶しなさい。」
<新約聖書 マタイによる福音書10章12節>

「挨拶は平和のしるし」

   「ああ、ここは居心地がいいなあ。この人といると
リラックスできるなあ。」そんな場所や知人をみなさんは
持っておられるでしょうか。そんなふうに思える場所や人々には、
ひとつの共通点があることに気づきます。それは心地良い
挨拶が交し合えるということです。「おはよう」「こんにちは」
「お元気ですか」「ごきげんよう」「さようなら」、もっと気楽な
「やあ」等々の挨拶も含めると数えきれないほど多くの
挨拶の言葉が交されます。通り一遍のようにも思えますが、
気持ちよくそのようなことばを交わし合えるという関係は
とても大切なものです。挨拶は礼儀作法ではありますが、
なによりもお互いを思う気持ちが挨拶の心ではないでしょうか。
親しい関係になると挨拶を交わすだけで、相手も思いが
わかるようにさえなるものです。
 聖書での挨拶は日本語ほどのバリエーションはなくて、
「平和がありますように」という言葉が主に用いられました。
イスラエルの言葉で「シャローム」と言いますが、お聞きに
なったことのある方もおられるでしょう。バリエーションは少なくても、
いつでもどこでも「平和がありますように」と挨拶がなされると
いうのもまた味わいがあるとも思いますし、日本語で様々な
言葉で交される挨拶も、その心は「平和がありますように」と
同じだと言ってもよいのではないでしょうか。
 私は岩手県盛岡市の出身ですが、盛岡では家に来客が
あった時には、そこにいる家族が皆玄関に出てきて声を合わせて
「お静かに(やすらいで)おでんせ(いらっしゃいませ」と
出迎える習慣がありました。意味はそのものズバリの
「平和がありますように」ということになるでしょう。私の家は
比較的大きな商家で住み込みの方々も数十人おられましたが、
来客のあるたびに家族や働いている人々と総出でお客様を
お迎えしました。そして、子ども心に、お客をお迎えするために、
各自のしていることや、遊びや、働きの手を止めて集まって
お客様を待つなかで、迎える側の心も静かに穏やかになることを
経験しました。不思議な暖かな雰囲気がそこに満ちていたことを
体で覚えています。挨拶は相手のためだけではなくて、そうする
自分の心を静かに穏やかに整えてくれるものでもあると思うのです。
 朝日幼稚園では、朝に帰りに挨拶をしっかり交わし合うことを
心がけています。教師たちはこの子の上に神様の平和があるようにと
願い祈りながら挨拶をいたします。泣いている子にも、あまり
調子のよくない子にも、時間をかけて挨拶をします。その時に
子どもが挨拶をうまく返せなくてもよいのです。その子にあたえられた
神様の平和がこどもの心をゆっくりと、ときほぐしていってくれることに
信頼します。そして、そのようになるからです。
 みなさんのご家庭でも、お父さん、お母さん、こどもたちと、
賑やかな中にも、朝に夕に挨拶の言葉を交わしあっておられる
ことでしょう。挨拶を交わし合う家は平和があり、居心地がよく
リラックスできる家です。そしてそのような家で育つ子どもは
挨拶をすることは良いこと、楽しいこと、嬉しいことだということが
体に染み込んでいき、社会に出ても同じようにすることが
できることでしょう。挨拶が先触れとして、その子の将来の
道を切り拓いていってくれるのです。
 少しずつ秋の気配が深まってきました。口も開きにくくなりますが、
寒さ負けず元気に挨拶を交わし合いながら神様の平和のうちを
歩みましょう。クリスマスの準備も間近です。「お帰り、ただいま」
の挨拶とともに、こどもたちからの幼稚園での楽しい話をたくさん
聴いてあげてください。
 みなさんの上に神の祝福と平和がありますように。


 愛する家族と、幼稚園の先生やお友だちと、そしてたくさんの
初めて会う人や、これから会う人と、平和の挨拶を交わし合わせて
ください。そこに神様がいつもいてくださり、その人を、その場所を、
平和で満たしてくださることに信頼します。まだ見ぬ子どもたちの
将来もこの平和の中に確かにあるようにと祈り願います。
この世界を平和で満たしてくださいますように。
平和の主、イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。



聖句 「『平和があるように』と挨拶しなさい。」
<新約聖書 マタイによる福音書10章12節>

讃美歌 「うまやのイエスは」「むかしむかしイエスさまは」 

今月の歌 「ゆうひ」

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