えんだより2011年1月分

見よ、新しいことをわたしは行う。
<旧約聖書 イザヤ書 43章19節>

「新しい毎日」


 雪がたくさん降りました。雪は私たちの生活には
少々厄介者ではありますが、白く敷き詰められた
雪の美しさは格別です。私たちが雪かきでふうふう
言っているときに、子どもたちが楽しそうに駆け
回っている様子が目に跳び込んできました。

 かくいう私自身も子どもの頃には誰も足跡を
つけていない雪に自分の足跡をつけたいという
その一心で、暗いうちに起き出して、家をぬけだし
(6時前で、まだ真っ暗で雪明りだったと
 記憶しています。今思えば、親にも言わず、
 かなり無謀でした。昔の田舎だったから
 できたことでしょう。)誰よりも早く学校の校庭へ行き、
駆け回ったことがあります。誰も踏んだことのないところを
自分が初めて征服するような思いで、気が大きくなって、
寒さも感じないほど嬉しかったのです。大人が見たら
無意味なことかもしれませんが、本人にとっては一つの
冒険であり、校庭中に自分の足跡をぜいぜいするまで
走り回ってつけて、とても満足でした。誰でも、やろうと
思えばできることですけども、そんなことが楽しい記憶
として、胸に焼き付いています。
 
形は少々違っても、そんな思いは、子どもの頃の思い出と
して皆さんにもあるのではないでしょうか。子どもは常に
新しいことにチャレンジするものです。大人にとっては、
何度も繰り返して飽き飽きしたようなことでも、子どもに
とってが、初めてのワクワクする経験なのです。


 神は私たちの人生に常に新しいことをなし続けてくださる
お方です。子どもはその新しさに怖じ気づくことなく、
向かっていきます。それ自体は、ただ新雪を踏むというような、
簡単なことであっても、そのことを自分でするか、しないかは、
大きな違いです。
 
 子どもだけではありません。私たちは神が、この私のために
あたえてくださって新しい経験を、見過ごしてしまっている
ことが多いのではないでしょうか。気づかないでそのまま
通り過ぎたり、面倒がって知らんぷりしてしまっては
いないでしょうか。

 何よりも、子どもを育てる、子どもとともにすごすことは、
一瞬、一瞬がこの新しさとの出会いです。明日の我が子は
今日の我が子ではありません。明日はまた、違うでしょう。

 子育てとは、神が私たち親にあたえてくださった、
子どもという「新しさ」との出会いにほかなりません。
見た目に楽しいこと、嬉しいことだけではありません。
面倒なこと、厄介なこと、はっきり言ってイヤなこと・・、
も神があたえてくださる新しい経験です。

 そして、そのことの中に私たちを成長させ、育んで
くれる神の愛が隠されているのです。
 今月の聖句は「見よ、新しいことをわたしは行う。」です。
ここで「見よ、」と言われていることに注目しましょう。
見過ごすな、しっかり見て、私のあたえる新しいことを
受けとめよ、というのです。


 常にこの「新しさ」の中に生きるとおき、私たちは
退屈することも、飽きることもありません。同じことを
毎日繰り返すというようなうんざりした思いに取りつかれる
こともありません。子どもと共にある新しい毎日の中で、
私たちも新しくされていくからです。新鮮な日々は心も、
(そしてある程度は)体も新しくしてくれるのです。

 新しい年を迎え、3学期が始まりました。新年を、その
言葉通りに、新しい思いを持って子どもと共に歩んで
いきましょう。ちょうど、新しい雪に、あなたと子どもの
足跡を一歩一歩、しっかりとつけるように。


常に新しい日を備えてくださる、父なる神様。
あなたのくださる毎日の中に隠された
ワクワク、ドキドキを経験させてください。
子どもを通してあなたがあたえてくださる
新しい喜びを受けとめさせてください。
昨日と違う、今のこの子の新しい姿を、
見逃さないようにさせてください。
そして、私たちのことも新しくし続けてください。
 主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
アーメン




聖句 見よ、新しいことをわたしは行う。
<旧約聖書 イザヤ書 43章19節 >

賛美歌  「ひとりひとりの なをよんで」「かみは うちゅうの つくりぬし」

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