えんだより2010年12月分

神は我々と共におられる。
<新訳聖書 マタイによる福音書1章23節>

「父ちゃん」神様


小さな子どもというのは、いつも誰かに
ぴたりと寄り添っています。お母さんやお父さん、
そして、先生たち・・、自分が信頼できる人と
一緒にいるときに子どもは安らぐものです。

 私たち自身も子どもの頃、そうでした。でも、
成長し大人になっていくにつれて、子どもの頃の
ように、親や、先生にぴたりと寄り添うことは
できなくなっていきます。それが大人になると
いうことですし、いつまでも親に甘えることは
できないでしょう。

 では、私たちは大人になると、ぴたりと
寄り添うことのできる存在をなくしてしまうの
でしょうか?そうではないと聖書は教えてくれます。


 子どもたちのおぼえている「主の祈り」の始まりを
思い出してください。「天にまします我らの父よ」です。
この「父」という言葉は元の言葉では「父ちゃん」と
いうようなくだけた言い方の言葉です。この神は私たちの
実の父、母以上に親しく私たちに接してくださるし、
私たちもそのように、親しくして良い方なのです。
そして、人間の中では私たちがいくら年齢を重ねたと
しても、「父ちゃん」である神の前ではいつまでも、
一人の幼子なのです。

 小さな子どもが、もしも、一緒にいてくれる人を
見失ったとしたらどうでしょうか。たちまち、不安に
なって、泣きだすでしょう。そして、親を捜すでしょう。
でも親の方が先にその子のことを必死になって、
さがしているのです。小さな子どもの姿は、天の父なる
神の前での私たちの姿を表しています。「父ちゃん」である
神から迷子になってしまうと、私たちはどうして良いか
わからなくなってしまうのです。


 今月の聖書の言葉の箇所はクリスマスの箇所の中の
一部です。イエス・キリストという方には、あまり
知られていないもう一つの名前があります。それは
「インマヌエル」と言います。そして、その意味は
「神は我々と共におられる」です。
 
 神は迷子になってしまっている私たちを捜しに
イエス・キリスト・インマヌエルとして、私たちの
ところに来てくださいました。朝日幼稚園に来ている
子どもたち、そして、皆さんも、もうこの方は見つけて
くださっているのです。

 イエス様は神の子です。イエス様と一緒に「父ちゃん」
に安心してぴったりくっついていて良いのです。不安な
ときや、悲しいとき、辛いとき、悩んだとき、そして、
楽しいときも嬉しいときも、この「父ちゃん」神様に
ぴたりと寄り添うことができるのです。「父ちゃん」は
私たちをいつもしっかりと、また、ふんわりと、暖かく
受け入れてくれるのです。

 
 親が一番喜ぶことは、「子ども」が自分のところに
来てくれることです。完全な親とは言えない私たちでさえも
そうならば、ましてや、「父ちゃん・神様」がそのことを
お喜びになるのは当然のことです。こないだ、ある園児が、
朝、私の顔を見るなり「牧師先生ー」と言って駆け寄って
きて、抱きついてくれました。とても、嬉しく思いました。
そして、「父ちゃん・神様」は私たちが駆け寄ることを
どれほど喜ばれるかを思ったのです。

 冬はご家族で過ごすことも多いでしょう。皆さんが
ご自分のお子さんと寄り添いながら、その子を思い、
慈しむ親としてのその思いに遥かに勝る愛と慈しみを、
「父ちゃん・神様」はあなたに持ってもられるのです。
あなた自身が「父ちゃん・神様」と一緒にいる平安の中に
確かにいるのです。


 お祈り

「お父さん・神様」。私はあなたの子どもです。
大きくなっても、人前では立派に振る舞っていても、
本当は、弱くて、泣き虫で、すぐ、くよくよしてしまう、
幼子です。だから、お父さんと一緒にいます。
僕を、私を守ってください、助けてください、
力をあたえてください。イエスキリスト・インマヌエルの
お名前によってお祈りします。
      アーメン



聖句 神は我々と共におられる。
<新訳聖書 マタイによる福音書1章23節 >

賛美歌 「うれしい うれしい」「お星がひかる」

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