えんだより2010年9月分

キリスト・イエスにおける恵みによって 強くなりなさい
<新訳聖書 テモテへの手紙第二 2章1節>

「本当の強さ」

  子どもには強く生きていって欲しい、
そう願わない親はいません。
私たち自身だって、強く生きていきたい、
そう思っているのですから。でも、
実際は、どうでしょうか。
 テレビや小説で、いろいろな逆境の中で
逞しく生きる人々の姿が多くの人々の共感を
呼ぶのも、ほとんどの人はそうではないことの
証拠ではないでしょうか。
 今月のみことばも、わたしたちに、強くあることを
勧めています。しかし、そこでいわれている強さは、
私たちが思い浮かべる強さとは、ちょっと、
いや、まったく違うのです。

 いろいろな人間の姿が描かれている聖書を開いてみると、
そこには確かに、見た目には強いと思われる人もいれば、
弱弱しくかんじられる人もいます。しかし、聖書は
そのような見た目でわかるような人間の強さというものを、
本当の人間の強さとしては考えてはいません。
 むしろ、本当の強さとは、自分の弱さを認めるところから、
始まるというのです。
 自分の中から強さを引き出せとか、気を強く持てとか
いうことっではありません。「キリスト・イエスにおける
恵みによって強くなりなさい」と勧めるのです。
 たとえば、強い言葉や勢いで周りを押し切りながら、
本当は不安でびくびくしている自分、子ども、夫、妻、
の方が正しいと薄々わかっていながら、叱ったり
怒鳴ったりして誤魔化してしまう自分、間違ってるなと
思いながら、周りにも引きずられて、自分をごまかして、
嫌々、いうことを聞いて後で自己嫌悪に陥る自分、
自分でも困ったものだと思っている欠点を自分の力では
どうすることもできない自分・・、そんな自分でもいやに
なるような弱い自分の姿です。
 まず、私たちの中にあるそんな弱い自分を素直に認めるのです。
そこから、聖書のいう強さは始まります。

 キリストは私たち人間に命を与えてくださった神であり、
弱い私たちをいつも助けてくださる救い主です。本当の
強さというのは、何でも自分一人でやれるというのでは
ないのです。もちろん、他の人の助けというのもありますが、
人間の助けには限界がありますし、自分の弱さを何でも
洗いざらい打ち明けるというわけにもいかないでしょう。
 どんな時でも神には頼ることができるというのが、
本当の強さの土台となります。私たちのすべてをご存じで
助け守ってくださる神・キリストが私たちに恵みをあたえて、
私たちをしっかり支えてくださるのです。どんなときにも
見捨てずに一緒にいてくださる方がいることに信頼するときに
人は強くなれます。この「強くなりなさい」はもとの言葉の
意味では「強くされなさい」です。自分ではなくて、
神が強くしてくださるのです。

 朝日幼稚園では、この自分の弱さを認めながら、それで
退くのではなく、だからこそ、神にあって前進し続ける
強さを、子どもたちに形づくられることを願い保育を
しています。自分の間違いを言い張るのではなく、過ちを
認める強さ、友達をやっつけるのではなく赦し受け入れて
あげる強さ、周りに流されずに本当に正しいことを
しっかりとなし続ける強さ、小さい者に威張るのはなく、
包み込んであげる強さ・・、そんな神のあたえてくださる
強さです。
 そして、そんな本当の強さが日本の国の将来には必要です。
もちろん私たちにも。



天の神様、私たちは、弱いところだらけです。
外からはそう見えなくても、逃げ出したくなるときや、
消えてなくなってしまいたくなるときがあるのです。
そんな弱さを誤魔化すために、強く出たり、他の人と
むやみにけんかしてしまったりします。そんな、
弱い私を認めます。イエス様の恵みの守りの中で、
神様のくださる強さをあたえてください。その
神様の強さの中で一歩ずつ、前進させてください。
神様の強さで弱い私を助けてください。
救い主イエス・キリストの名によって祈ります、アーメン。




聖句 キリスト・イエスにおける恵みによって 強くなりなさい
<新訳聖書 テモテへの手紙第二 2章1節 >

賛美歌 「おそいくるライオン」「ちから」

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