えんだより2010年7月分

神は人を分け隔てなさいません。
<新約聖書 ローマの信徒への手紙 2章11節 >

「神は人を分け隔てなく」

 今、お隣の奈良県は、平城京遷都1300年ということで
ずいぶんにぎわっているようです。当時の平城京は、
西はローマから始まり、中東、中国をへて、海を越えて
日本へとつながる、シルクロードの終着点として、世界の
文化と人々が流れ込んできていました。意外に思われるかも
しれませんが、平城京は黒髪黒目の人々だけではなく、
金髪碧眼の人々までも含めて、実に様々な人々が闊歩していた
国際色豊かな都だったと考えられています。

 それ以上に多くの人々で満ちあふれていたのが、今月の
聖書の言葉の宛先である、1900年ほど前のローマです。
ローマは既にこの時、世界一の国際都市でした。しかし、
そのような多くの人々がそこで仲良く暮らしていたかと
いうと、そうではありませんでした。人種の違い、身分の違い、
職業、性別等々の違いが、人々をバラバラにしていたのです。

 この手紙を書いた牧師・パウロは言います。「神は人を
分け隔てなさいません。」と。神は人が、様々な違いの中で、
バラバラに生きるのではなく、むしろ、神にあって一つと
された者として生きることを望んではおられることを
告げたのです。

 この言葉は現代に生きている私たちにとっても関係のない
言葉ではありません。私たちは誰でも、人を分け隔てにする
というのは、いけないことだということは、わかっています。
しかし、それを実行できているかというと、どうでしょうか。

 現代日本は、平城京やローマの都とは違って、身分の違いは
基本的にはありませんし、職業に貴賎はないし、性別による
差別も無いことにはなっています。しかし、相変わらず、
様々な形で人を分け隔てしてしまっている私たちの心の
現実があるのではないでしょうか。

 たとえば、私たちは他の人が誰でも皆、自分と同じように
考え、感じていることを、当然のことだと、どこかで
思い込んでいるのではないでしょうか。自分と考えや
感じ方の違う人に出会うと、間違っているとまでは思わなくても、
どこかヘン、どこかおかしい、とまず考えてしまうのでは
ないでしょうか。そして、自分の視点で他の人を自分とは
異なったものとして見ることによって、心の中に壁をつくって
しまっているのではないでしょうか。

 本来ならば、他の人が、自分とは違う考え、感じ方をしても、
それはおかしなことではないはずです。むしろ、その違いを
互いに認め合い、学びあっていくことができるはずです。

 イエス・キリストの傍には、実に様々な人々がいました。
そして、それらの人々が何の壁もなく、共に、歩んでいました。
今月のみことばの通りです。その人々は後に、世界に出かけて
いきます。そして世界中のあらゆる人々に、神はすべての人を
愛しておられて、人を分け隔てするような方ではない、だから
私たちも人を分け隔てしてはいけないということを伝えたのです。
そして、教会は次々と全世界に拡がっていきました。その教会
の中に朝日幼稚園もあるのです。

 当たり前のことですが、朝日幼稚園の子どもたちには何の
分け隔てもありません。そして、その分け隔てのない心を
幼稚園だけではなくて、将来に向けて拡げていってほしいと
願うのです。これから出会う舞鶴の人々だけではなく、
日本中の、そして世界中のあらゆる人々と、何の隔てもなく、
広く接し合える、どこまでも拡がる心こそが、この子たちの
将来の大きな財産になることを疑いません。これからの
国際釈迦にもっとも必要なのはそのような神の広さに沿って
いくように、どこまでも拡げられていく心です。そして
そのように拡がる心には神が必ずたくさんの宝を入れて
くださるに違いありません。そして、子どもたちだけではなく、
私たち大人の心もどこまでも拡げられていく心でありたいと
願うのです。


 
お祈り
 どんな人のことも分け隔てしないで、愛し、
受け入れてくださるイエス・キリストの
父なる神様。

 自分で自分の心を狭くしてしまう私たちです。
出会う人々の中に隠されている豊かな宝を
入れようとしない壁をつくってしまいます。
神様の心をあたえてください。子どもたちと
一緒にいろんな人たちと共にいて、受け入れあい、
学びあい、助け合う、広い心を私たちにも
あたえてください。そして、その私たちの心に、
神様の宝をたくさん、たくさん、入れてください。

 救い主イエス・キリストのお名前によって
祈ります。 アーメン


聖句 神は人を分け隔てなさいません。
<新約聖書 ローマの信徒への手紙 2章11節 >

賛美歌 「なかよくなさいとイエスさまの」「おそらでひかる」

えんだより目次へ戻る