えんだより2010年5月分

わたしは良い羊飼い
<新約聖書 ヨハネによる福音書10章11節 >

「私たちを養ってくださる方」

 春になって、野山を歩くようになると
子どもたちはいろんな生き物を捕まえます。
でも、生き物の世話をするのはなかなか大変です。
かわいそうな話ですが、トンボやチョウを捕まえてきては
虫かごに放し、そのあとどうしていいのかがわからずに、
そのままにしていて、世話を仕切れずに死なせてしまう
ことがあります。そのときに感じる心痛む思いは、言葉では
表現できないとしても、小さな命に対する自分の責任と
いうことを子どもに教えてくれますし、広い意味では
自分を世話し養ってくれる親や先生たちへの、感謝の
思いになっていくのではないでしょうか。

 ご両親は生まれ落ちた時からそれこそ至れり尽くせりに
世話をして、お子さんたちを育ててこられたことでしょう。
「親になってみて初めて親の苦労がわかる・・・」
これはだれしも経験することです。そして、そのような
ことは、子どもだけのことではありません。人間は
みんな、誰かに世話をしてもらって生きているのです。

 子どもたちが幼稚園の礼拝でする、「主の祈り」は
「天にましますわれらの父よ」と始まります。これは
天の神が私たち人間みんなの親であることを表しています。
神は人間を造ってくださいました。そして親として人間を
養ってくださるお方なのです。今月のみことばでは、
神は「私は良い羊飼い」と言われます。ここでは人間を
羊にたとえているのです。

 羊は私たちにとってはあまりなじみのない動物かも
しれません。実は、羊は養うのがとても難しい生き物
だそうです。あまり聡くはなく、自分で水や食べ物を
見つけたりすることができないのです。おまけに群れを
なしていても、互いに学び合うことが苦手で、たとえば、
最初の一匹が穴にはまって転んで、それを見ていながら、
他の羊も同じところにはまって転んでしまうというぐあいです。
動きも鈍く、自分の身を守る武器もありません。

 一方で、人間は賢い生き物と考えられます。どうして
そんな羊に人間がたとえられるのかと不思議に思うでしょうか。
でも、賢いはずの人間の心はいつも飢え乾いてはいないでしょうか。
体は栄養いっぱいでも、心はやせっぽちではありませんか。
他人からはしっかりしているように見えても心はふらふらと
迷いがちではないですか。人の失敗を見ていながら、同じような
失敗を自分もして、しかも、わかっていながら同じような
過ちを何度も繰り返すのではありませんか。決断ができず、
ぐずぐずして、ふと気付くと自分を守ってくれるものは
何も無いではないかと不安に怯える夜を過ごしたことが
あるのではありませんか。人間は科学や技術には賢いのですが、
「自分の生き方そのもの」については羊と大差ないのでは
ないでしょうか。

 神はそんな私たちを養ってくださいます。そして人間を
羊にたとえているというのは、私たちが立派だから
養い育てようというのではなくて、欠けや失敗が
多いものだからこそ、養ってくださるということなのです。

子どもが失敗したら、親は責めるのではなく、
まず先にその子のことを思い、助けの手を差し伸べるでしょう。
神はいつでも私たちを助けてあげようと、見守って
いてくださるのです。子どもを養い育てる中で、実は
自分自身も神に愛され、養われていることを忘れないで
ほしいのです。

 家事や子育てに慌しく振り回されている中で、そんな自分を
暖かな眼差しで見ていてくださる方のいることを思うとき、
ふっと肩の力が抜くことができます。何でも自分でしなければ
ならないという、追い詰められて固くきしんでいるような心に、
神は慰めの油をさして、心を軽やかに整えてくださいます。
朝日幼稚園の子どもたちはもちろん、皆さんご家族の方々も
この神の愛の中にあることをいつも、覚えていてほしいのです。



お祈り
父として、また、母として私たちをいつも見守り、
養ってくださる天の神様。
私たちは自分で何でもできる、何でもしようと思いこんで、
いっぱいいっぱいになって、
身動きがとれなくなってしまうことがあります。
できないことをできないことと素直に認めて、
子どものように、あなたに助けてもらう心を与えてください。
子どもの姿を見て学ばせてください。
このお祈りを私の良い羊飼い・イエス・キリストの
お名前によって祈ります。
アーメン。

聖句 わたしは良い羊飼い。
<新約聖書 ヨハネによる福音書10章11節>

賛美歌 「ことりたちは」「おててをパチパチ」

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