えんだより2005年3月分

光の子として歩みなさい。
<エフェソの信徒への手紙 5章8節>

可能性はどこまでも!
今年度、最後の「えんだより」、となりました。
春一番が先日、吹いたことを記憶しています。
もうすぐ、春を迎えようとしています。
この舞鶴にも、春の香りが運ばれてきています。
幼稚園の玄関を入って、左手に階段を上りますと、階段の途中のところに、
一列になって「ひやしんす」、が私たちを出迎えて、
素敵な香りを放って、くれています。
どうぞ、御覧になってください。


その並んでいる、花はスミレさんが、ペットボトルを再利用して、
作った土がまったくない花壇(水栽培)です。
500mlのペットボトルを、飲み口の上から5cmほど、のところ輪切りにして、
それを逆さにして輪切りの、ところにはめ込みます。
ちょうど、そこに球根を添えて、水が球根に届くくらいまで、入れます。
すると、そこから真っ白な根が生えてくるのです。


昨年末から、育ててきています。それが、今やっと水と太陽と、
スミレさんの一人一人の愛によって、花を咲かせています。
冬休みには、自宅にみんな持って帰って、大事に育ててきました。
毎日、男の子も女の子も、手洗い場で水を取りかえるのに、
慎重に一歩一歩確かめながら、ゆっくり歩いてクラスまで、運びました。
今、その「ひやしんす」が、順番にそれぞれにきれいに、花を咲かせています。


聖書の中には、神さまが私たちに、神さまの言葉の種を、まいてくださっている、
という話があります。これは、イエスさまがなさった、たとえ話なのですが、
神さまは、まず石地に神さまの種を、まかれました。
しかし、そのようなところには、少ししか土がないので、
少し芽が出てきたのですが、
根っこがほとんど生えない、ために茎は弱々しくて、
すぐに腐ってしまいました。


次いで、茨の生えている、ところにも神さまは、種をまきました。
茨は、トゲトゲしているのが、特徴的な植物ですが、そこでは根っこは生えて、
さらに上に向って茎も、伸びてきました。
茨が生えるくらいですから、植物が育つ日光と土が、そこにはあったのです。
しかし、そこにせっかく伸びてきた、神さまの種の茎や葉が、
茨に邪魔されてしまい、そこからダメになって、しまいました。

そして、最後にしっかりした、土が豊かに広がる土地で、
近くに何の邪魔する、ような植物のないところに、神さまは種をまきました。
すると、そこでは神さまのまいた、種はしっかり根っこを生やし、
上にもグングンと茎を伸ばし、育ってゆきました。
その種は、たくさんの実りを、もたらして刈り取られ、
あるものは30倍になり、あるものは60倍になり、
あるものは100倍にさえなったのです。


これは、神さまの言葉の種は、どんな人にもまかれている、
ということをたとえた、イエスさまのお話です。
私たちがたとえ、石地であっても神さまは、
神さまの言葉の種を、ちゃんとまきに来るのです。
また、茨が生えているような、ところにも神さまは、わざわざ来てくださって、
種をまいてゆかれるのです。
私たちは普通は、石地になど種をまきません。
しかし、神さまはまくのです。


神さまが愛される土地には、たとえ道であったとしても、
石地であったとしても、種をまくのです。
さらに、このお話の大事なことは、私たちのことを神さまは、
石地であるとか茨のある、土地とは見てはいない、ということです。
たくさんの実りをもたらす、良い土地として見ておられる、ということです。
だから、誰でも私たちは、実りをつけることが、
約束されているのだ、と聖書は語るのです。


私たちは誰しも、根を生やし芽を出して、30倍や60倍や100倍もの、
実りをつけることができる、というのです。
私たちには、いつでも可能性と希望が、あるのです。
それは、私たちの想像できる、ぐらいのものではありません。
実りが、2倍くらいまでならば、私たちは想像すること、ができるでしょうけれど、
30倍や60倍や100倍の、実りなど私たちはきっと、想像できないでしょう。


これを、子育てに置き換えて、解釈することもできる、と思います。
私たちは、あまりはやく、わが子の性格(や心)を、見切ってしまっては、
ならないということが、いえるでしょう。
つまり、「この子は石地だ」、といって決め付けて、しまってはならない、ということです。
さらに、「石地に種をまいても、根など出るはずがない」、
などと思ってしまったら、それは最悪なことです。


神さまが、私たちをこの上ないほど、良い土地として見ておられる、
ように私たちもわが子を、この上ない良い土地である、
と見たいと思うのです。かりに、石地であったとするなら、
そのところの石ころを、毎日少しずつでも、取り除いてゆけば、
良いのです。時間はかかるでしょう。
けれども、この世に与えられた、子どもで悪い土地の子、などいません。
耕せば、みんな良い土地である、ことが分かります。


その本当に良い土地である、バラさんが今月の18日の、
卒園式をもって園を巣立ちます。
朝日幼稚園で、最高に良い土地として、たくさん耕されてきた、バラさんです。
神さまの種が、私たちにまかれて、根を生やし芽を出して、
30倍や60倍や100倍もの、実りをつけるように、
バラさんはこれから、朝日幼稚園を卒園して、さらにさらに大きくなって、
私たちの想像を超える、くらいの実をつけるでしょう。


子どもたちは、いつでも可能性があり、どこまでも続いてゆく、
希望があるのです。
わが子について、そのことをもっとも、信じることができる、のが親だと思います。
それこそが、親の義務のようにさえ、思います。
私たちが、可能性を諦めたり、希望を失ったり、することはありません。
私たちは、最高に良い土地である、わが子のことを信じて、
その心を耕してゆき、愛の種をまき続けて、ゆきたいと思います。


これから、朝日幼稚園の子ども、一人一人が元気いっぱい、
色とりどりの花を咲かせ、自分だけが持つことのできる、
香りを放ってゆくことを、確信しています。
もうすでに、花を咲かせ始めている、バラさんのご卒園を、
共に喜びたいと思います。

――神さま
朝日幼稚園に与えられた、子どもたちを
光の子として、歩ませてください。
すべての子どもたち、みんなが良い土地です。
神さまが、30倍、60倍、100倍もの果実を、
子どもたちに実らせてください。
みんなそろって進級し、みんなそろって卒園できますように。
 イエスさまのお名前を通して、み前におささげいたします。
           ―アーメン

聖句 光の子として歩みなさい。
(エフェソの信徒への手紙 5章8節)
賛美歌 

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