えんだより2004年10月分

もとめなさい。そうすれば、与えられる。
<マタイによる福音書 7章7節

信じて祈る心を!

9月に入り、東舞鶴の小学校も中学校も、運動会のシーズンに入りました。
私も、日曜日に駆け回るように、いくつかの小学校と中学校の、運動会を
見に行くことができました。体力の続く限り、
教会学校の子どもが、参加する運動会は見に行きたい、と思ったからです。
本当に同じ地域にある、隣接する学校であるのに、
まったく異なるカラーをそれぞれの学校はもっており、
どれも感動をもって見て回りました。


ある小学校に行きましたら、すでに運動会終了の時間になってしまい、
残念ながら校庭にも入ることができず、門のところで娘と立ち往生していますと、
東舞鶴教会の教会員である、Aさんが歩いて来られました。
Aさんに、ご挨拶をして「もう少し早く来るべきでした」と謝ろうと思いましたら、
「台風の影響で少しずつ、プログラムを早めていった」ので、
「台風が悪いのです」などと言われました。

そんなふうに、少し気を遣っていただきながら、
しばらく立ち話をしておりましたら、
「牧師先生、ちょっと聞いてくださいます?」
と言われ、私が難しそうな顔をしたのでしょうか、
すぐに「難しい話では、ないんですけど」と続けられました。
私は「難しい話でも、良いですよ」と笑いながら答えて、
道路を渡って少しばかり、話を聞くことになりました。
それは短い話ですが、とても印象的な話でした。

Aさんは、このような話を、私にしてくださいました。
そんなに、教会に熱心でもないように思える、娘が珍しくというか、
不思議にもというか、「お祈りをしたよ!」と自分に報告してきてくれた、
というのです。私はすぐに、「それは、すごいじゃないですか」と言いました。
前日までの天気予報では、自分の小学校の運動会の日は、
台風が通過する影響で、ほぼ100%悪天候になるはずだったからなのです。


しかし、それでは困るので、
「かならず、かならず明日、運動会ができるように」
と神さまに、祈ったのだそうです。
加えてテルテルボウズまで、しっかりと作って祈るほどの熱の入れようだった。
どうしても絶対に、延期して欲しくないので、ちゃんと祈ったのだ、
というのです。そこで私は、
「そんなに真剣に祈れるのは、心が神さまにしっかりと向いているためですよ、
やはりすごいことです」、と言いました。


しかし、同時に疑問がわいてきました。
それは、「何かそんなに延期されては困る、用事があるのだろうか」ということでした。
そう、そのままに聞いてみましたら、
Aさんは「そこなんです。お祈りは、私もよいと思うのですけれど、
そんなに真剣に祈る理由が、『もう、運動会の練習をするのが、イヤ』だから、
なんだそうです」と吹き出しながら言われました。
私も、思わずツラれて吹き出してしまいました。


私は、「それでもやっぱり、自分が辛いときや、困ってしまったときに、
神さまに向きが変えられる、と言うのは大事なことですよ」というように、
話しました。Aさんは、「私も、そうは思うんですけど・・・」と言いかけて、
また吹き出してしまいました。
私は、そのときのAさんの話を、それから幾度か思い出しながら、
「心からの祈りは、子どもの方が容易にできる。それは見習うべきだ」と、
思い始めるようになりました。


私たちも、神さまに祈ったり、願ったりすることが、あるだろうと思います。
しかし、そのときの心の内側では、実は「どうせ、祈ってみたところで、
何か本当に変わるだろうか」と疑いながら、祈り願うだろうと思います。
そして、その祈りの内容とはそれほど関係がないように思うのです。
難しい内容だろうが、セッパつまっていようが、神さまに真剣に祈れるか、
どうかは別問題のように思うのです。

さらに、私たちは神さまに祈るのであるのに、自分の方で勝手に神さまへの
祈りの良し悪しを、決めてしまうことがあります。
こんなことは、神さまは聞いてくださらないだろう、とか。
こんなことは祈っても無駄だ、とか。
自分で結論を出してしまうことがあります。
何よりも、祈る心を神さまはご覧になるし、神さまに信頼して祈ることを、
お喜びなさるのに、私たちは早急に勝手に結論を出そうとします。


「求めなさい。そうすれば、与えられる。」と聖書は言います。
「探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」
からです。反対に言うならば、求めない者へは、与えられることはない。
探さない者は、見出すことはできない。
門をたたかない者は、開かれることはない、ということも言えるでしょう。


しかし、それが神さまの願いであるというのではないです。
むしろ、私たちは大胆に、求めることができない、
現実を生きているのではないでしょうか。それは、大人であるということが、
意味のない障害になっているように思います。大人であるがゆえに、
Aさんの子どものように、神さまへまっすぐになれない、
神さまの前に低くなることができない。
そして、神さまに信じて祈り願うことができなくなるのです。


私たちは、大人になることで、そのことを見失ってしまう。
神さまは、どんなことでも祈ってよいと言われます。
私たちは、何事も思い煩いたくはないけれど、私たちの周囲には
困難や悲しみが、突然に降ってわいてくるように起きることがあります。
そのとき、いっとき思い煩うことを中断して、
神さまに心から祈り願ってみて欲しいと思います。
もちろん、私たちの願う結果が得られるという約束はできません。


しかし、その道にかならず神さまの意味があり、
その意味があとで分かってきます。
どうぞ、皆さんも騙されたと思って、祈ってみてください。
子どものようになって、神さまに真剣に心から祈るのです。
かならず、あなたに新しい道が開かれます。




神さま。
祈りを疑う心が、私たちにはいつもあります。
しかし、どうぞ信じて祈ることができるようにしてください。
朝日幼稚園の運動会を祝福し、実り豊かなものとしてください。
家族に困難を抱えている友が、心も身体も守られますように。
新しい命をお腹に宿しているお母さんを、また赤ちゃんをお守りください。
イエスさまのお名前を通して、み前におささげいたします。

聖句 求めなさい。そうすれば、与えられる。
     <マタイによる福音書 7章7節>
賛美歌 「おそいくるライオン」「はたけのおやさい」

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