えんだより2004年7月分

成長させてくださったのは神です。
<コリントの使徒への手紙 3章6節

平のイモほりから!
舞鶴汽船の便が、この夏をもってなくなることに伴い、
平のイモほり遠足をこれまでの形では、続けることができなくなりました。
その行われてきた歴史は古く、なんと20年以上前、
いやいや30年も前から続いてきたといいます。
幼稚園から平まで、あの三条通のつきあたりの岸壁から出ている、
舞鶴汽船に揺られて行く、楽しい企画でした。
昨年も、全体で80人ぐらいの参加がありました。


お母さんのなかからも、「また、乗りたかった」と言われる声を、
実際に聞きました。
平に行ったことのある子どもたちも、やはり残念なことと思います。
わたしは、今年入園の園児と同様に、一度もこの平のイモほりには
参加したことがないので、舞鶴汽船に乗れないということよりも、
これまで続いてきた園行事である、平のイモほりを
子どもたちと一緒に経験できないのが、残念でなりません。


そこで例年は、どのようであったか、先生方に聞いてみました。
その話を聞きながら、いろいろと楽しい空想をすることができました。
また、考えさせられることもたくさんありました。
イモほりに、行かれたことのある方は、思い出していただき、
残念ながら行くことができなかった方は、この「えんだより」にお付き合いください。
平のイモほり遠足の、その当日の流れは、だいたい以下のようです。


まず朝日幼稚園を出発し、先ほどのあの船着場まで、みんなで歩いてゆきます。
そして、舞鶴汽船に揺られて約20分の船の旅をへて、平に着きます。
到着後平の畑で、一番にすることは、礼拝です。
それも、神社の敷地でします。
神社で、キリスト教の礼拝をするのは、少し(とっても!?)奇妙です。
しかし、最も朝日幼稚園が大事にしていることですから、
おそらく場所などは問わないのです。


礼拝を終えてから、イモほりを始めます。
子どもたちに、まずイモつるがどのようになっているか、を教えてから、
実際に手でイモをほってゆきます。
朝日幼稚園の子どもは、日ごろから園庭で土やドロでもって遊んでいますから、
手でイモをほることに対する、抵抗感などまったくありません。
そこで、日ごろ食べている野菜などが、土に埋まってこうして作られる、
ということを楽しみつつ学びます。


またその間に、おもしろい出会いもあります。
園庭では、けっして会えないような、恐ろしいほどのムシのオンパレードです。
山のふもとにある畑ですから、ムシの種類も豊富で見たことのないような
昆虫もあるのですが、たとえ園庭で日ごろ目にしているイモムシであっても、
スナックエンドーほどの大きさにまで成長しています。
発見してびっくりしたり、つかまえて喜んだり、子どもたちの心が耕されます。

ほりおこしたイモを運び、そのあと保護者の方々が分けてくださいます。
そして、後半園児たちは、ムシとりと探検に向かいます。
それぞれのクラスに分かれて、成長に応じて散策の道を選び、
足場の悪い山道で歩くことを学び、ほどよく疲れたころに昼食をとり、
1時半ごろに終了します。
イモを自分たちで運ぶのは、「ばらさん」です。
そこで、「『ばらさん』になるとここまでできる!」という自覚が芽生えます。


そして、再び舞鶴汽船で帰ってきます。これが、平での一日の流れです。
やはり、これほどの楽しさと、多くの学びとが、できるのは園外保育ならではでしょう。
平でのイモほりでなければ、知ることができないでしょう。
そこで、舞鶴汽船を使って平に行くことはできなくなりましたが、
これまでの経験を活かし、さらに保育を展開しようと願い、
10月中旬に神崎でのイモほり遠足を予定しています。


また、お気づきになっておられる方や、お子さんからお聞きになった保護者の方も、
おられるかもしれませんが、園庭の端(鉄棒のわき)のところに、
6月2日に全園児が自分たちの手でイモなえをしました。
自分たちが植えたイモとして声をかけてあげたり、
子どもが水をやったりもしています。
しかし、8なえ植えたうち、1なえは枯れてしまいました。
悲しいことですが、これも良き学びとなるでしょう。


同じところで、同じ条件で植えても、ひとなえひとなえ成長は違いますし、
育てる側の思い通りにばかり、成長はしません。
栄養にしても、水にしても、ただいっぱい与えたからといって、
なえにとって良いのではありません。
やりすぎて、かえって弱ってしまうこともあります。
周りに雑草が生えると、栄養がそちらに奪われてしまうので、
抜いてやらないといけません。雨の度に、雑草はモリモリ生えてきます。


何だか子育てと、ずいぶん通じることがあるように思います。
兄弟は、同じように愛情を注いでも、まったく同じようになど育ちませんし、
子どもは悪いことほど調子に乗ってやりますから、雑草を抜くように
教えてあげないとならない、こともやはりあります。
しかし、だからといって(そうしたからといって)
健やかに成長するか、というとわたしたちの思い通りに、
子どもは成長してはくれません。

そこで、わたしたちは改めて思わされます、
成長させてくださるのは神さまである、と。
そのことに、心から信頼することができたら、
子育ての気持ちが楽になると思います。
子育てに落胆したり、責められるようにして、
子どもに当たることもなくなるでしょう。
心に、心地よい余裕のようなものができるはずです。
しかしまた、だからこそ精一杯努めよう、しっかり頑張ろう、
という気持ちも出てくるでしょう。

子育てのために、共に大いに悩んで、大いに奮闘しましょう!
 (わたしもまったく、その最中です。)
すべてを神さまが用いてくださって、
成長させてくださるということに信頼して、
何事にもいつも前向きでありたい、と思います。
神さまの恵みの中で、喜びながら子育てができますように。


神さま。
わたしたちの家族として、あなたがこの子を選び、
この子を与えてくださいました。わたしたちのこの愛する子を、
あなたが心も体も健やかに成長させてください。
喜びと感謝をもって、わたしたちが、毎日を過ごせますように。
イエスさまのお名前を通して、み前におささげいたします。
―アーメン


聖句 成長させてくださったのは神です。
     <コリントの使徒への手紙 3章6節>
賛美歌 「みんなで みんなで」「あさひが ぱっと」

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