えんだより2001年2月分

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。
私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」

<ヨハネによる福音書 14章 6節>

1月はやはり飛ぶように過ぎたように思いました。もう2月です。
新世紀を迎え心新たにいろいろ思っておりましたが、
ウロウロしているうちに1ヶ月が過ぎてしまいました。
内心忸怩たる思いがあるのですけど、まぁ今に始まったこっちゃないかと
この頃居直る術も身につけてきました。
子どもたちは?とみると『21世紀だから心新たに』とか『今年の抱負は』
なんてどこ吹く風。ひとつひとつ今まで積み重ねてきたものを
色んな場面で発揮しているのだと思います。
『人が区切った1年や100年なんて関係ない、その子その子の
時というものがあるのだなぁ』とやはりここでも思わされます。
心の成長ということがよく言われますが、この心の成長は人の決めた時で
みられるものではないのでしょう。
「僕はあの時はああだった」
「私はあの時は、あのようにせずにはいられなかったんだもん」と、
本人が振り返り、思いを言えるようになった時、
その子のひとつの時が終わり、次へと向かっていくのでしょう。
思えたり言えたりするようになるためには心を押し殺していてはダメで、
まず思い切り外に出すことが大事ですね。
幼児だったらそれの表われ方は、泣く・すねる・あばれるなんて形で出るのでしょうか?
私はいつも『心を受け止めてあげてください』とお母様方にお話していると思います。
それは、子どものはっきりしたサインですからとってもわかりやすいのです。
受け止めてあげて下さい。
朝日幼稚園のお母さんは、実にこのことに心を止め、して下さっていると思います。
これはやっぱり大変なことですから、感謝です。
そしてむずかしいことに、子どもの心は同じ泣くという行為でも
いつも同じ所にはいません。
子どもの成長、特に心の成長は、先程書いたように人の決めた区切りで
順序よく成長するものではありません。
でも、子どもは確実に前に向かっています。
ずーっと同じ様でも、ある時カクンと一段上に登るのです。
そんな子どもたちですから、
親はいつも同じ対応ではいけないのではないかと思わされます。
ある時は抱きしめ、ある時はじっくり話をし、
でもある時は頭ごなしに怒鳴り手が出ちゃう時だってあるでしょう。
つきはなす時も必要です。
それが、その時々どうすればいいのか手引きはありません。
正直、こっちの感情次第ということが多々あるでしょう。
でも真剣に子どもに向き合っているのであれば、子どもは何らかをキャッチします。
そして心を働かせるのでしょう。
私がこんな事を書いたのは、今、生の自分の感情をあらわす事って
少なくなってきています。
でも我子に対しては結構素直にあらわしてしまうのです。
思わず手が出たり怒鳴ったりして・・・。
子育てに自信を無くして落ち込んだりもするのですが、
この生の感情に触れ合うからこそ子どもの心も大きく揺れて、
人間として成長していくのではないでしょうか。
『人間ってこういうものだ』と体得する事もあるのではないかと思います。
だってお互い、機械仕掛けやパソコンのシステムプログラム通りとはいかないのですから・・。
親の思いとすれば、こんな風に感情も生々しくなっちゃうからこそ、
冷静になれば子の子が一層愛おしかったりするのではないでしょうか。
思うようにならない子どもの姿を見れば、不安も増してきます。
『この子はいったいどうなるのだろう。どのように成長していくのだろう。』と。
最近、何人かのお母さんの口から『ハリー・ポッターと賢者の石』J・ローリング作の
本の話が出ました。私も、昨年9月、S先生に教えられて読んだのですが、
これがおもしろいんだなぁ。
ついつい引き込まれて読んでしまいました。
魔法使いのお話なのです。
ここで筋書きを話しては、これから読まれる方に失礼なので
詳しくは書きませんが、主人公のハリーポッターくんの両親は魔法使いで、
邪悪な力を持つ魔法使いに殺されてしまうのです。
その時、赤ちゃんだったハリーポッターくんは1歳になり、彼も又邪悪な力に
立ち向かっていくのですが、まだ子どもです。真の力を身につけてはいません。
その彼が戦いの場面で絶体絶命、邪悪な力に首をしめられる!
という場面で、その力を持つものが彼をさわることが出来ないのです。
触ると手がみるみる焼けただれてしまい、苦しむのです。
ハリーポッターはその場で気を失ってしまいます。気がつくと、
彼を助けてくれた校長先生が側についてくれています。
彼は校長先生に
「なぜ僕の体に、邪悪な力を持つ者が触れなかったのですか?」とたずねます。
「君の母上は君を護るために死んだ。
邪悪な力を持つ者が理解できないことがあるとすれば、それは愛じゃ。
君の母上の愛情が、その愛の印を君に残していくほど強いものだったことに、
彼は気づかなかった。それ程までに深く愛を注いだということが、
たとえ愛したその人がいなくなっても、
永久に愛されたものを守る力になるのじゃ」と答えます。
もうこの一文で私もさらにぞくぞくしてしまい、このお話にはまってしまいました。
愛される者を邪悪な力は触れないのです!
私の愛する子を、邪悪な力はどうすることも出来ないのです。
どんなことがあっても、一番良い道がその子に与えられているはずです。
だってこの子は私の愛する子なのですから。
また、この校長先生が語った母の姿は、
まさしく私たちの主イエスさまの姿に
ほかならないとも思いました。
イエス様は私たちを守るために死なれた。それはまさしく愛ゆえです。
その愛は永久に、愛されたものを守る力になるのです。
あなたも私も、私たちの子どもたちも、この愛の中にいるのです。
一月は本当にアッという間でした。こんなに早く感じられたのも、
一人一人の成長を感じさせられたからにほかなりません。
子どもたちの心は日々変わっていきます。
そんな子どもたちにおいていかれないように眼の前の姿と、
何年後かの姿を思い浮かべつつ毎日を過ごしたいと思います。


―ご在天の父なる神さま、御名をほめたたえます。
子どもたちの成長にただ感謝する日々です。
でも、なお大きく成長していく子どもたちです。
そしてそんな子どもの姿に不安を覚えることがあります。
この子の行く道は大丈夫なのでしょうか?
あなたがいて下さる恵みを思います。
あなたが子どもたちを大きく愛して下さっていますから、
一番良い道を備えて下さっていますから、
その平安の中を歩ませて下さい。

 このお祈りを、私たちの主イエス様の御名前を通して御前にお捧げ致します。
            アーメン―

聖句 エスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。
私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

     <ヨハネによる福音書 14章 6節>
賛美歌「どんなときでも」「ひかり ひかり」

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