えんだより2001年1月分

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
「その名はインマヌエルと呼ばれる」
この名は「神は我々と共におられる」という意味である。

<マタイによる福音書 1章 23節>

新年明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
それぞれのご家庭で新しい年をお祝いされたことと思います。
幼稚園のご家庭は幼子のいるご家庭ですから、きっと、
にぎやかな年明けだったと想像いたします。
そして、一人ではなくこうしてお祝いできる家族がいるということは、

当り前のようでそうではないことを思います。
こうなるために様々な出来事が組み合わさって、
作り上げられてきたことを思うのです。
だって5年前?10年前?20年前?、私はこの人と一緒になるなんて
分かっていた人は一人もいないでしょう。
こんな子どもを持ちたいなんて思っていて、その通りになった人も
一人もいないでしょう。でも今、伴侶が与えられ、この子が与えられ、
共に2001年を迎えているなんて!!
当り前のようで当り前でない、大きな恵みの中に
私たちはいるのですね!
今月も12月と同じ聖句を暗唱したいと思います。
クリスマス近くなって、みんなとても上手に暗唱できるようになりました。
さぁー冬休みが入ってみんな覚えているかしらん?
この聖句は、マリヤの夫となるヨセフの夢の中に現れた天使が
告げている言葉です。この御言葉はヨセフに告げられているのです。
ヨセフは、いいなづけであるマリヤに赤ちゃんが出来たことを知って仰天します。
その頃は姦淫は石打ちの刑で死罪でした。
「マリヤのお腹の子は私の子ではない!」と公に言えば
マリヤは石打ちの刑です。ヨセフは、マリヤがそうなることを
望みませんでした。マリヤのことを愛していたのでしょう。
そのマリヤが死刑になるなんて・・でもきっと裏切られたという思いで
悔しさも一層だったのではないでしょうか?
処女マリヤが子どもを産む。
天使のお告げに「はい」と答えたマリヤはすごいとずっと思っていました。
でも、この頃ちょっぴり年をとってきて、マリヤもすごいけれど
ヨセフのことを思うととても人間臭いドラマをあれこれ想像してしまいます。
どんなに思い悩んだことでしょう。そして、やはり最後には
天使のお告げに「はい」と言ったヨセフはとってもすごいと思うのです。
「人間というものは、どうしても人に知らせることの出来ない一隅を
持っています。醜い考えもありますし、また秘密の考えがあります。
また、密かな要望がありますし、恥がありますし、
どうも他人に知らせることの出来ない、ある心の一隅というものがあります」
森有正というキリスト者の文章の一文だそうです。
さらに森先生は「その心の一隅でしか、人間は神さまに会うことが出来ない」と
書かれています。
ヨセフも一人で悩んでいました。ああでもない、こうでもないと、
いろいろ思いわずらったことでしょう。ある時は
『マリヤを助けたい・助けてやろう』と平安に思うかと思えば、そのすぐ後で
『マリヤは裏切り者だ・許せない』と思ったのではないでしょうか。
自分の心に照らし合わせてみるとそうなんです。
そしてヨセフは神さまに祈ったのでしょう。
「どうしたらよいのですか」と。
そのヨセフに神さまは『恐れずにマリヤを妻に迎えなさい』と答えられ、
『神は我々と共におられる』と告げられます。
私たち一人一人は、すばらしい恵みの中でいかされているのです。
先程書きましたように、こうして家族が与えられ、共に過ごす事が出来るのは、
不思議と言えばとっても不思議です。
ヨセフさんもあそこで天使のお告げがなかったら、
ヨセフ・マリヤ・イエスさまの家族は出来なかったでしょう。
20世紀後半第2次世界大戦後、
日本でも家族のあり方がとても大きく変化した年でした。
家長制度がどんどん崩壊していったように思います。
会社の雇用の形態も変化してきました。景気もいっこうに実感として
よくなるきざしもなく、人々はとても不安の中にいます。
そんな中で、どんな人づくりをしたらいいのか、教育の世界もいろいろ
変革が迫られています。
‘変わっていかなくてはならないことは、変わっていける’
そんな柔軟さを身につけたいと思っています。
色んなことに挑戦できる意欲も持っていたいと思っています。
でも出来ない事もある。そうしたらいいと分かっていても
いろいろぐたぐた思ったり、本能的に尻込みしてしまうことがあります。
やはり、どうも他人には知らせることのできない一隅があるのです。
そして、言い訳したり、自分を責めたり、心は様々に思い乱れるのです。
その心を神さまに向け、神さまの前に立つ、
神さましかこの心と向かい合って下さらないからです。
こんな私たちに神さまは、どんな時でも「インマヌエル」
「神は我々と共におられる」と言って下さっています。
さぁー2001年が始まりました。
どんなことが起こるのかとても楽しみです。
談ですが、AD2001年というのはannoDomini
ラテン語で“主の年”という意味です。
主イエス様の年が2001年となるのです。
3学期はほんとに早いですが、1日1日がもう惜しまれる程
充実した日々になります。
神さまが私たちと共におられる恵みの中で、喜びの日々を送っていきましょう。


―ご在天の父なる神さま、御名をほめたたえます。
新しい年を感謝します。
共に喜び祝う家族がいますことを感謝します。
3学期が始まりますが、共に日々を過ごす友だちがいることを感謝します。
どうぞ私たちと共にいて下さい。
嬉しい時も、悲しい時も、あなたが共にいて下さる恵みを
忘れることがありませんようにみちびいて下さい。

 このお祈りを、イエス様のお名前をとおして御前にお捧げ致します。
            アーメン―

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む
「その名はインマヌエルと呼ばれる」
この名は「神は我々と共におれれる」という意味である。

     <マタイによる福音書 1章 23節>
賛美歌「いつくしみ ふかき」「しゅいえすのみちを」

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