えんだより2000年12月分

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
「その名はインマヌエルと呼ばれる」
この名は「神は我々と共におられる」という意味である。

<マタイによる福音書 1章 23節>

すみれ組でお芋の絵を描いていました。
絵の具で、大きなお芋が画面一杯に描かれています。
『その絵の中にお友だちや土の中の虫たちをさらに描きこませたい』
それが今日の教師の活動のねらいです。
楽しかったお芋掘りの場面を思い出して、その時の楽しさを
子どもたちにのびのびと描かせたいという教師の思いは、
一人一人の所に行っての声かけから始まります。
「うん、ステキに描けてる。じゃあ今度は○○ちゃんも描いてあげてね。」
そんな言葉をかけながら、あちこちまわって忙しいこと。
「わぁ大きな手が描けた。じゃあ眼も描いてみよう」動き回り、
その子の絵をみながら一声ずつ、さらに2声、3声とかけていきます。
4人の女の子たちが向かい合わせて座って
「ねぇねぇお弁当を描きましょうよ」と話が盛り上がっています。
「あなた何が好き?」「みかん」「じゃあみんなみかんを描いて」と
1人が言うと、みんなで一斉にお弁当の中にみかんを描き入れます。
「あなたは?」「バナナ」「それではバナナを描きましょう」
いつの間にやら先生役になった湖がまたみんなに指示を出すと、
他の3人はそれを描くのです。「は〜い、じゃあ次はあなた」
4人の女の子はお芋の絵を描いていたのですが、それ以上にもう
「あなた」とか「それでは」ということばに酔いしれてしまって、
会話がどんどん広がって手の方はお留守がち。
何度かA先生が「あら、とってもおいしそうなお弁当。
食べているお友だち、お芋を掘っているお友だちも描いてね」と
声をかけるのですが、女の子たちはそんなことおかまいなし
「じゃあ白いクレヨン!」「これって何の食べ物になるのかしら・・?」
「あなた言ってみて」の会話に夢中です。
そんな姿を見守りながら、先日読んだ新聞の記事を思いだしました。
小学3年生の女の子たち数人が写生大会の絵の題材が同じだったので
そのクラスの担任が体罰にその子たちを一部屋に集めて
「全裸になりなさい」と言い、女の子たちは自分で服を脱ぎ、
担任教師の許しが出るまで数分間全裸になったというのです。
教師の体罰の記事はしばしば新聞にとりあげられますが、
この記事を読んで私の心にとまったのは、この担任教師は
女の子たちが同じ題材の絵を描いたのは「自分で考えられないのは
動物と同じ。動物の気持ちになって反省しなさい」と言って
服を脱ぐようにと言ったという理由でした。
これから先は私の想像ですが、この先生は子どもたちに教育を
したかったのではないかと思うのです。
日頃の女の子たちと担任との関係はどうだったのでしょう?
色んな日々の関係があって、「自分で考えないのは動物と同じ」
「自分で考えなさい」と子どもたちを教育したかったのです。
でも、だから全裸にするのではあまりにも愛がない教育です。
やっぱりいくら教育のつもりでも、これでは教育とは言わないのでは
ないでしょうか。
青木和夫著の「ハードル」という本を読んだ時、万引きをした少年に対する
学校のあり方というのが描かれていました。
「誰かが万引きをした」という事実が発覚した時、学校側は犯人捜しに
躍起になるのです。「誰ですか?正直に名乗り出なさい!」
これは決して架空ではない、今の学校教育の姿ではないでしょうか。
でもその本の中では誰が犯人かをつきとめることが大事なのではない。
そのしてしまった子どもが心から‘悪かった、もう二度としません’と
思わせることが大切なのだ。
それが人を育てるということだと描かれていました。
そうです!学校も幼稚園も子どもを育てる場であり、
裁く場ではないことを深く心にきざみたいと思うのです。
また、裁かれて人が豊かに育つとは思えないのです。
もちろん、裁きはあります。それをなさるのは神さまです。
それゆえに、ひとり子なる我子イエス様を地上におつかわしになったのです。
神さまは私共を、まず裁きではなく愛し抜かれたのです。
今、教育の名のもとにゆがんだ教育がはびこっているようです。
「自分で考える子に」「正直に言える子に」大義名分の元、
真に大事にされねばならないことがなおざりになっているように思えてなりません。
観られた方もあるでしょうが、24日の夜NHK教育でシンポジウム
『教育21世紀の人間創造へ』という番組をしていました。
教育とはどういうものなのか、色んな方が話しておられました。
その中で、ノーベル賞学者の江崎玲於奈先生が
『教育とは創造的失敗の中にあると思う。とお話になりました。
それは、その子がまちがったことをした時、失敗した時、それを受け入れる。
そして、じゃあそこから抜け出すにはどうしたらいいのか、
色々考える。悔い改めることができる。
教育とはそういう場であるということだと思います。
暖かいまなざしの中、子どもが伸び伸び、
失敗してもやってみる場にしたいと心から願います。
12月に入りクリスマスを待ち望む日々です。
子どもたち大人も、この日が近づくと嬉しい気持ちになります。
それは先程も書きましたように、神さまが大きな愛を私たちに
示してくださったからです。
まわりの人を思いやりプレゼントし合うことも、
その神さまの愛に満たされてこそ出来ることです。
この愛の中で生かされていることをしっかりおぼえつつ
愛の中で励んでいけますようにお祈りいたします。
P.S すみれ組の女の子、あの後それぞれにその子らしく
楽しい絵が仕上がりました。「あれからどうしたの?」と聞くと
「一人一人呼んで描きました」とのA先生のお話でした。


―ご在天の父なる神さま、御名をほめたたえます。
イエス様の御降誕を心からお祈りします。
あなたの愛をしっかり受けて、
私たちも子どもたちに愛を示すことが出来ますように、
守り導いてください。

 このお祈りを、イエス様のお名前をとおして御前にお捧げ致します。
            アーメン―

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む
「その名はインマヌエルと呼ばれる」
この名は「神は我々と共におれれる」という意味である。

     <マタイによる福音書 1章 23節>
賛美歌「きよしこのよる」「アドベント クランツに」

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