えんだより2000年11月分

わたしはぶどうの木、
あなたがたはその枝である。
<ヨハネによる福音書 15章 5節>

今日、A中学校の生徒さんたちが職場体験で9名、園を訪れてくれました。
その中の一人は朝日幼稚園出身の子どもでした。
その子が、職場体験の話を中学校の先生から聞いてきたその日に園まできて
「先生!職場体験承諾書に印を押してほしい。私ここに来たいから・・」と
言うのです。卒園児にたのまれたあとあちゃー「ダメ」とは言えません。
早速承諾書に印を押しました。そして今日の職場体験が実現しました。
いつもの保育の中に入りました。一緒に遊び、礼拝をし、お弁当を食べました。
初めはぎこちなかった生徒さんたちが、ちょっとずつ子どもたちの中に入って、
動きもなめらかになってきました。礼拝は全体礼拝をし、私が聖話をします。
子どもたちの後ろに9名の生徒さんがずらっと並びました。
話し終わってお祈りをし、席に戻ろうとすると、朝日出身の彼女が振り返って
「先生、同じだね」と言いました。
「うん、おんなじ」と答えました。
そしたらその子がポロポロと涙を流して「あれ?涙がでてきちゃった」と
言うのです。彼女が卒園して7年たちました。でも、7年前と変わらない
同じ空気がその場には流れていたのだと思います。
そして、その空気を胸一杯吸った時、熱くこみ上げる感情がわき上がったのでは
ないでしょうか。彼女を見て、私も思わず涙でした。
この子はこの場を温かい場、なつかしい場だと思ってくれている。
卒園してから7年間色んな事があったに違いありません。
色々新しいことが起こって、幼稚園の細かいことを記憶としては
忘れてしまったこともあるはずです。
でもこの空気は、意識しようとしなかろうと、体で、
心で憶えていてくれたのでしょう。
先月、10月の園だよりでも書かせていただいた松居直先生のご講演を、
直接聞ける機会を与えられました。

そのご講演の中で先生は
『記憶にない、意識にないことが、自分の中に一杯つまっている』

とお話くださいました。「自分のことは自分が一番よく知っている」と
私たちはよく思いがちです。でも本当にそうでしょうか?
このことに関して、ほんとは自分はどうしたいのか?自分のことなのに
自分で分からない。ということがよくあります。
「自分の中に、記憶にない、意識にないことが一杯つまっているんだから、
自分のよく分からなくても仕方がないか」と少しホッとしました。
そしてグズグズしている私、ウロウロしている私以上に、私のことを
知って下さっている方がいる。神様がおられると思うと、とても平安な
気持ちにさせられます。
実はこのところ、繰り返し"失敗だなぁ”と思っていることがありました。
そして自分を責めていました。
・・それは娘がちっとも本を読もうとしないことです。
「もっと本を読みなさい」と言った時期もあったのですが、一向にききめがなく
‘わたしはこの本大好き’というお薦め本を、まわりにそっと何気なく置いた
時期もありました。きっと手にしてくれるに違いない・・と。
でもその場所にそのまま、本を置かれたままでした
・・なぜ本を読まないのだろう?
幼稚園の頃は2人で寝る前に本を読むのが日課でした。
娘はお気に入りの本を2〜3冊持ってきます。それを読んで眠りにつくのは
心地良いこと、親子の幸せな時間でした。
娘はその時、本が大好きだったはずなのです。
でも娘が小学校1年になった時、私は思ってしまったのです。
ああ、この時間に(娘の寝る時間)一緒にいい気持ちになって寝入って
しまってはいけない。娘が寝た後の時間を有意義に使えるはずだ・・。
そこで、寝る前の一緒に絵本を読む時間をとりやめ、娘には、「もうそろそろ
自分で読んでね」なんて、おろかなことを言ってしまったのです。
松居先生は言われます。『絵本は自分で読む本ではありません。
読んでもらう本です。そして絵本は小学生になっても、時には中学生に
なっても読んであげてください。』
本を一人で読ませようと躍起になるなんてバカなことをしてしまいました。
親子で存分楽しんだら、一人でに本を求めていったことでしょう。
娘がなぜ本を読まないのか、その理由がやっと分かったと思いました。
‘本の大好きな子になってほしい’
私は娘に対して一番望んでいたことでしたのに・・。
ご講演後、松居先生を眼の前にして私は思い切ってこのことを先生に
お話しました。「先生、私子育ての絵本に関しては失敗でした」と言うと、
私の話を聞いて下さった先生は「いやぁー失敗ではありません。
幼児期そうしてご一緒に読んでおられたのでしょう?
娘さんがお母さんになってからを見てごらんなさい。
あなたがなさったように、きっとお子さんと一緒に本を楽しまれるように
なりますよ。」と言ってくださったのです。
パァーと心が軽くなりました。
そう、私の中には記憶にない、意識のないことが一杯つまっている。
娘の中にもそうであるはずです。私にとっても未来が開けた思いでした。
私どもの家庭にはそれぞれ子どもが与えられ、
未来が指し示されているのです。
この子たちがどんな大人になっていくのか、何を好きになり、
何をするようになるのか?
今幼い子どもを育てている私たちには、想像もつかないような気がします。
でも、けっこうこの芽は今にあるのかもしれません。
そして「そんなぁー、困った、ちっとも私の言う事を聞かないし、
うまくいってない」と思うお母さん、
今冷静にみればそんな状態ばかりではありません。
一緒に笑っているじゃないですか。
抱きしめているじゃないですか。
―わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である―とイエス様は
語ってくださっています。人が私につながっており、
私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
私たちの意識があろうと、なかろうと、神様の愛の木はしっかり根をはり、
養分を脈々と枝々に行き渡らせて下さっています。
私どもひとりひとりの内に入ってきてくださり、
豊かな実が結ばれるようになるのです。楽しみですね。
子どもの成長と共に私共は未来を思い描くことができる恵みを思いつつ、
心豊かにこの秋の日々を過ごしたいと思います。


―御在天の父なる神さま、御名をほめたたえます。
私の足の先から頭のてっぺんまで、隅々まで知って下さる神様、
あなたの平安の中を歩ませてください。
あなたにしっかり繋がっていくことが出来ますようにしてください。

 このお祈りを、イエス様のお名前をとおして御前にお捧げ致します。
            アーメン―

わたしはぶどうの木
     あなたがたはその枝である。
     <ヨハネによる福音書 15章 5節>
賛美歌「もろびとこぞりて」「むかしむかし イエスさまは」

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