えんだより2000年10月分

初めに言(ことば)があった。
言(ことば)は神と共にあった。

言(ことば)は、神であった。
<ヨハネによる福音書 1章 1節>

松居直先生の「子どもの本 ことばといのち」という本を読みました。
子どもの本とは、子どもたちに向けて作られている本のことです。
松居先生は福音館書店の子どもの本の編集に長くたずさわり、
社長から会長、相談役になられて現在に至っておられます。
その先生が子どもの本を通してことばの大切さ、そこからあふれてくる
命について、何冊かの絵本・児童書を取り上げられ紹介されています。
とてもおもしろく、読ませていただきました。もう知っていると思っていた本でも
色々新しい発見がありました。
 エルサ・ベスコス作・絵の「ペレのあたらしいふく」もそうでした。
幼稚園にもおいてあります。水色の地に黄色の花の描かれている表紙は、
『暖かい絵だなあ』と思わされました。
そして、自分でじっくり読むこともせず、

手に取るとすぐ子どもたちに読んだのです。
読む時絵は子どもの方を向いています。

私は文字を追う事ばかり夢中になっていました。
ペレの洋服が出来上がっていく
一つ一つの過程が、
丁寧にたんたんと書かれている本だなという印象を
強く持っただけでした。
でも、今回松居先生の文章を読んで改めて手に取ると、

この平坦でたんたんとした中に、松居先生が言われる通り、あの絵の中に
様々なメッセージが込められていることに気づかされました。
ペレは何才なのでしょう?作者は何才の男の子とも書いていません。
が、たぶん絵の感じでは7、8才といった所でしょうか?
そのペレが、自分で自分の持っている羊の毛を刈り、自分の洋服を手に
入れるまでが描かれています。
羊の毛をすいて糸にし、その糸を染めきれいに織り上げ、
服が出来るまで自分で出来る所は自分でし、
出来ない所はおばあさんや、おじさんや、お母さんに頼むのですが

ぺレの仕事をしてあげる間、
お母さんもおばさんもおじさんも用事をいいつけます。
ペレは頼まれた用事を黙々とこなしていきます。「えっ〜」とか
「うそ!疲れる!」とか「やだ!」とか一言も言いません。
自分が頼んだことをしてもらのですから・・・。
開いたページにある、上着の袖が短くなりニョキっと手が出ているのを
口をとがらせて見ているペレの表情がとても印象的です。
そして、その後羊の毛を刈る時のペレの表情は実に楽しそう。
用事を言いつけられて黙々とこなすペレの表情も
ちっともイヤな事をしているという顔ではありません。
ほしい物を手に入れる為に真剣です。
日曜の朝、少し大きめの新しい服を着たペレの顔はとっても満足そうです。
8才の男の子が自分で洋服を手に入れたんですから・・・・。
子どもたちに「草取りしたことある?」と聞くと
「ないっ」と初めは言っていましたが、
「あっあるある!この前の芋畑の草取り遠足!」「草取りどうだった?」と聞くと
「暑かった」「たいへんだった」と口々・・。
でも、した事、やった事は、やっぱりしっかり覚えているし、
身についているんだなと思わされました。
この絵本の時代の子どもたちは、きっとよく働き、
力をつけていったんだなぁーと想像させられます。
そうしないと家のことが成り立っていかなかったのでしょう。
また、ひとつの物が出来るのに何人もの人々の手を通らないと出来ないことを
日々教えられます。
新しい物を身につけたペレと正装した家族はどこに行くと思いますか?
もちろん、日曜の朝といったら教会です。
ペレは最後の場面で子羊に「新しい服をありがとう」と感謝しています。
そして教会に行き、全ての恵みの感謝の祈りを、
家族揃って神様に捧げるのでしょう。
毎日の生活が、子どもにとってものすごい教育です。
現代の私たちには、そのものが作られていく過程を子どもに見せることは
とても出来ません。
色々便利になった分、色々力を落としてしまいました。
そんな時代の中で子育てをしているお母さんは、迷ったりわからなかったり、
どうしたらいいのかと思うことがいっぱいあって当然だと思います。
母親があえてしなくても、教育してくれる場が生活の中でたくさん
あったのですから・・・。
先日のクラス懇談会で「家庭の教育力が落ちている」と思わず言わせて
いただきましたが、100年前のスウェーデンの日常の生活をこんな風に
垣間見ると、「仕方ないじゃない!」と言いたくなります。
松居先生は‘ことばは生きて働き、いのちをうむ’とおっしゃっています。
眼に見えない言葉です。けれど、実際意味のない言葉の氾濫がどんなに
心を滅ぼしていることでしょう。相手にとってはなにげない一言でも、
心がグサっとつきささりいまだに忘れることが出来ないという経験をもった
人はとても多いと思います。
ことばは、人を生かしもし、殺しもするとつくづく思うのです。
日々、子育てをして子どもの躾や子どもとの関わりは難しいと
悩む私たちですが、子どもにかけることばに
どれ程気をつかっているでしょうか?
栄養のバランスや体のことには細かく気を使いながら、
つい我子を眼の前にして「ばかネ、この子」とか
「家のバカ娘」とか言ってしまう私・・・
それでは子どもがやる気を起こしたり頑張り通したり
できるはずがありません。
そんな言葉しか自分の内にもっていないと
それが出て行くしかないのです。
反省・・・。
又、松居先生は
“自らの中に豊かなことばの体験がないと人の話は聴けません。
話を聴く力のある人、話の聴ける人というのは、人の語ることばに共鳴し
共感できることばを自らの内に豊かにもっている人です。”と言われます。
子どもの内に豊かな言葉を埋めているのでしょうか?
以前言いましたが子どもの良い所を誉めることの大切さ
「お前はダメね」で一杯にするか、
「お前がいて嬉しい、かわいい、ありがとう、
お兄ちゃんお姉ちゃんになったね」で一杯にするかです。
涼しくなってきました。
1日少しの時間お子さんをひざに乗せて一緒に絵本を
読みましょう。親も子も豊かな言葉で自らの内を一杯にしたいですね。

―御在天の父なる神さま、実りの秋を迎えます。
何よりもまず、私たち一人一人の心の内をあなたの恵みで一杯に
してください。あなたと共にある喜びで満たしてください。
あなたの御名を心からほめたたえます。

 このお祈りを、イエス様のお名前をとおして御前にお捧げ致します。
            アーメン―

聖句 初めに言(ことば)があった。
     言(ことば)は神と共にあった。
     言(ことば)は、神であった。
     <ヨハネによる福音書 1章 1節>
賛美歌「主イエスはまことのぶどうのき」「おそいくるライオン」

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