えんだより2000年6月分

隣人を自分のように愛しなさい
マルコによる福音書 12章31節>

 先週は、家庭訪問をさせていただきありがとうございました。
私共の園では、毎年この時期に家庭訪問をさせていただいています。
『やっと園に慣れてきた頃にまた半日保育になるのは・・』と思われたご家庭も
あったことと思います。毎年悩むのですが、園に入りたての頃より、一ヶ月たち
教師もお子さんの様子が少しわかりご家庭も家と園での子どもの様子をみて
「これはどうなんでしょう」「今こんな状態なんだけど」と、通常儀礼的ではなく
一歩踏み込んで話せるために、この時機にさせていただいています。
そうなんです。このご家庭との連携の大切さを年々思わされるのです。
 またまた子どもの犯罪が、しかも毎日のように取り上げられる昨今です。
子育てをしているものが不安になることばかりです。バスジャックの事件が
ありました。新聞を読んでいたら、バスの中の息子を説得しようと両親が現場に
駆けつけたけれど、車の中で両親は『息子を説得できる自信がない」と
もらされたそうです。その事を“自分の息子を説得できないなんて・・”と
書かれていました。確かに“親子関係がどうなっていたのか”と思います。
はっきり分かっていたのは“両親は息子としっかり結び合ってると思ってなかった、
思えなかった”のではないでしょうか。では、中学・高校になった我子の心の内を

‘しっかり分かってる’と言える親がどれ程いるでしょうか?また、‘親の言う通りに
子どもが動いてくれる’となんて、その年齢の子どもを持っている親御さんなら、
ほとんど自信がないのではないでしょうか?『でも大丈夫。この子は私の心の内
を分かってくれる。多少色んな事もするだろうけど、何をしたらお母さんが悲しむかを
分かってくれている。』と親子の信頼関係に思いをはせるのだと思います。
その後の新聞で「我子がこわれていくのを感じていた」と話されていた両親の
記事がありました。‘どないもこないも通じない・・・’と感じられていた両親の気持ちは
いかばかりだったでしょう。少年の過去が記事になり、ケガをしたり学校へ
行けなくなったりと、どんどん追い込まれていく状態が書かれています。
何とかこの子を受け止めたいと思ったこともあったでしょう。でもどうしていいか
分からない。眼の前の子どもは不可解になっていくばかり・・・そんな状態が
思い描かれました。
―隣人を自分のように愛しなさい―今月はこの聖句を暗唱したいと思います。
イエス様は“あらゆる掟のうちで一番大事な掟は『心をつくし、精神をつくし、
思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい』である”と言われ、
“第2の掟は『隣人を自分のように愛しなさい』である”と言われました。神さまに
愛されている私たちですから、神さまに心をむけ神さまを愛することはちょっとは
出来るように思うのですが、私以外のものを自分のように愛するとことはなかなか
出来ないと思わされたものでした。でも我子が与えられた時、『この子は自分の
ように愛せるかもしれない』と思いました。ところがどっこい、我子と言っても別人格。
『この子を愛するにはどうしてあげたらいいんだろう。愛するって難しい。』と
思わされることがしばしばです。私に良いと思ってもこの子に良いとは限らない
のですから・・・。そんなときふと“愛することは何かをしてあげる行為をさすのだろうか”
と気づかされました。もちろん愛するがゆえに抱きしめ、この子の健康を守り、
欲求を満たそうと努めるのですが、要求したことを満たすのが愛することなのでしょうか?
愛するがゆえに何もしない、黙っている、見守っている・・その子との距離を
保たなければならない時があるはずです。
自分で立って、自分で試してみて、自分で味わってみなくては、自分で感じることは
できません。人間は本来、自分で感じたいものではないでしょうか?自分のように
愛するということは、その子本来の力が引き出されるように、ある時は抱きしめ、
ある時は距離を持ち、その子の心の動きを見守る姿勢の中にあるのではないかと
思います。
 そんな事を思っている時、朝日新聞の「論壇」という所に伊藤友宣先生が
こんな事を書いておられました。
『“事を憎んで人を憎まず”が人間本然の姿である。「どうしてそんな悪いことが
やめられないのか、おまえはそんな悪い子だったのか」と事と人とを一体同一視する
咎めが心の外傷を強める。「それは悪い。だのにお前自体はかけがえのない我子だ。
毛一筋も憎めない。だのに悪い行動は憎む。だのにお前そのものが愛しい!
やめなさい。」ならば子の心に届く。一般にわかってやることが大事と言うが、
受容と許容とに曲解がある。本当の受容を心がける。だめはだめで通す。
「分かってくれないのか」と迫る子を「その残念さは分かる!」とき然として
分かってやる。言うべき大人の判断情報はしかと言い切る。すると案外、子は
無視するようでやがて自分のサイクルで動き出す。最後に一番肝心なこと。
「分からせてやろう」とあせる前に「分かってやれているのか」と胸に手をおこう。
頭(観念・教え)は現代風でも、子どもに向ける大人の心(日々の言動)は古いまま。
子どもは心の芯でみんな懸命に育ちたがっている。』
お話の対象年齢が中・高校生ですが、子育てをしている親にとっては大事な提言
だと思います。子は成長していきます。親もまた子どもと共に成長していきたい
ものです。その為にもご家庭と園と、大事な子どもを見守る良き関係を作っていきたいと
願っています。

ご在天の父なる神さま、御名をほめたたえます。
慌しい動きの世の中で、何を一番大事ににしなければいけないのか
見失いそうになることがあります。
自分のしている事が分からなくなってしまいそうになります。
どうぞ守りみちびいて下さい。
幼子と共にあるそれぞれのご家庭の上に
あなたの平安と祝福が豊かにありますようにお祈りします。
このお祈りをイエス様の御名前を通して御前におささげいたします。
                  アーメン―

聖句  隣人を自分のように愛しなさい <マルコによる福音書 12章31節>
賛美歌 「ぱらぱらおちる」「こころをあわせ」

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